創業65年目の座談会

ブロイラーの伸展と営業所開設

ホッパーが売れたときはボーナスを8ヶ月出したことも

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

九州や東北に営業所が設置されたのは、どのような製品が主力であったときですか?

甲田 和久
甲田 和久

自動給餌機が販売の軌道に乗りつつあるときに、営業所が設けられていきましたね。
昭和39年に採卵鶏が大不況になりまして、方向転換せざるを得なくなり、平飼いの自動化がぼつぼつ始まりました。特にそれは種鶏が主体であった訳です。その種鶏からブロイラーという平飼いの飼育方式に移行していった。私が北九州の出張所へ行ったのが昭和44年ですから、その前、昭和41年から44年3月までは、ブロイラーのお客さんを中心に売込みをはかっていました。ところがタイミングよく、九州地区でブロイラーがブームになって、昭和44年に私が単身で乗り込んだという訳です。その時宮沢さんが入社されて、彼も九州へ行ったのですが、これが出張所開設第1号でしたね。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

レイヤーの時代からブロイラーの時代へと転換したのですが、それが39年ですね。

甲田 和久
甲田 和久

その中間はですね、ウォーターピックを、ケージが売れなくなって大量に造ったんですよ。中央養鶏、横浜養鶏などに納入しましてね、ウォーターピックの時代が1、2年あったのですよ。

坂口 和門
坂口 和門

その頃外国の雛が導入されるので、私の記憶によりますとアイデアルという鶏が今でもあると思うのですが…。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

ブロイラーに入った頃に、社長が入社されたのですか?

中嶋 君忠
中嶋 君忠

そうですね。40年にこっちに帰って来たのですから…。

甲田 和久
甲田 和久

41年の頃ですね。ホッパーがどんどん出てくる時代なんですよ。

中島 英雄
中島 英雄

ケージもダメ、ウォーターピックもダメ。ホッパーが1個2500円、手造りではなくて機械造りにして2000円で販売する方式を考えだしたのですが、結局、他の同業者も機械製造方式に切りかえたので、最終的に1500円となり、行きづまってしまいました。

中嶋 君忠
中嶋 君忠

ホッパーが売れたときは、それはものすごく売れた。ボーナスを8ヵ月も出したとか…。

中島 英雄
中島 英雄

それはケージのとき。私が入社した32年には年商800万円、それから一年毎に倍、倍で年商を伸ばしてきた。

 
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