創業65年目の座談会

ケージ養鶏のブームにのる

上山田温泉の旅館を3日間借り切って社員研修を行った

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

キングヒーターで一時代を画し、それを基礎にしてケージの時代に入る訳ですが、それはいつ頃ですか?

中島 英雄
中島 英雄

34年ぐらいだったね。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

そこが大きなポイントになった訳ですね。甲田さんは、入社の頃の印象をどのようにお持ちですか。

甲田 和久
甲田 和久

私は35年の入社ですが、会社へ来てまずびっくりしたことは女性の多かったことですね。ケージを造っている時で、当時の古い事務所の2階や裏の食堂の2階に、定時制の女学生がたくさんいまして、私も若かったのですから、ある種の期待はありましたね。(笑)
しかし営業の仕事の面を振りかえりますと、非常に厳しい時代でしたね。新しい製品の開発ということを、当時専務が一生懸命やられていた訳ですがケージだけでなく、のちに発売されるウォーターピックとか、飼料タンク、スクリューコンベヤーなどの開発に入るのです。それ以後のことをみると、そこが過渡期、昭和39年を迎える訳ですが、なにか前ぶれというものがあったと思えるのです。

坂口 和門
坂口 和門

当社が今日を迎えるひとつのヤマとして、昭和34年頃、経済連や全農の指定を受けたときに、ケージ養鶏がブームになった。これが大きく発展する契機となったのではないですか。
あの頃、私は兵庫県の徳田種鶏場で研修を受けて帰ってきた頃で、社員は160人ほどもいたのではないですか。上山田温泉の清風園を3日間も借り切って社員研修を行なった記憶があります。私も技術的なことで一席ブッたこともありますし。この35年あたりが一番発展して…、そのあとがイケナカッタ。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

そのケージにまつわる思い出といいますと…。

島田 好映
島田 好映

ケージの盛んな時期は女性も多かったのですが、24時間操業の3交替制で仕事をこなしました。女性は深夜作業ができないものですから、夕方の5時から10時まで。10時から朝の5時までは男性で、女性は朝の5時に起きて8時までまた仕事をして家に帰る。8時から5時までは普通の勤務でした。機械が少なかったものですからフル回転するためにこのような体制をとったのですね。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

泊まるとなると大変だったでしょうね。

島田 好映
島田 好映

寝具は、上等ではなかったですが、全部そろえたりして…、全部で女性は10人ぐらい泊まりましたかねえ。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

34年から始めて、ケージは何年頃が頭打ちになるのですか?

中島 英雄
中島 英雄

36年。というのも、うちの求めた市場が、関東、東北地方とわるかった。当時盛んだったのは愛知、岐阜だったからね。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

“ナカジマ”といいますと、すなわち“ケージの会社ですね”と名がとおっていた。それが2年ほどで火が消えてしまったとなると…。

中島 英雄
中島 英雄

養鶏の核心がケージだったからね。儲けたことは儲けましたよ。お客様をことわるのに苦労したくらいですからね…。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

藤本さんは、その当時どのような仕事を?

藤本 さかい
藤本 さかい

私はたしか営業の仕事でしたね。荷札に宛て先を刷る機械もなくて、毎日100枚、200枚と手書きで、9時、10時と残業したものです。ケージが始まって1年ぐらい経って、原価計算にぼつぼつ取りかかりました。当時から多品種だったもので、試算表を作るのが複雑で、A2くらいの大きな紙に書いたりして…。

中島 英雄
中島 英雄

宮坂さんが来てからだな、新しい会計システムができたのは。

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